瞑想をお伝えしているとよく耳にする言葉。
・「自分と向き合ってみます」
・「内観してみます」
ちょっと深刻さと共に言葉にされることが多いように感じて、実は私はあまり使わない言葉だったりします。
たかが言葉、されど言葉。
言葉ってとても影響力があると思うのです。
先ほどの「自分と向き合ってみます」や「内観してみます」って瞑想のクラスや書籍などでもよく出てくる言葉なのですが、イメージとして「自分を見張る」ような印象がありませんか?
なんだか、ドラマなどでみる刑事さんが取り調べしてるみたいな。笑
「どうなんだ?お前がやったんだろ?」みたいな!
内観や瞑想が、そんな風に自分を責めてしまう時間になっていないでしょうか?
内観って、文字にある通り「自分の内側を観る」ということですよね。
どんな心模様があっても、観る。どんな思考が浮かんで来ていてもただ観る。どんな体の感覚があっても観る。
その繰り返しだけ。
山や河、空を眺めるように、観て、それに気づくだけで十分なのではないでしょうか?
そして、大切なのがそれらに「気づいている」ということ。
それをね、無機質な机に座って向き合って、刑事のように尋問をはじめちゃうと、深刻になってしまって当たり前ですよー。
「はい。私がやりました...」みたいに、なんでも自分が悪いんだ。自分が未熟だからそうなってしまったんだ。
とか、「私は犯人ではないんです!刑事さん!あいつが悪いんです!!」みたいに、誰か悪者がいて、それが時には ”環境” だったり、”自分の立場” だったりと姿を変えても、どこかに犯人がいるような。
そなな世界観になってしまいそうじゃないですか?
星空だって、観察しはじめってあまりよく見えない。
月と金星など、明るく目立つものだけが視界に入ります。
観察を続けていくうちに暗闇に目が慣れてきて、少しづつ他の星も見え出したりするのだと思うのです。
内側を観ていく ”内観” も同じ。
初めは、思考だったり、体の痛みだったり、怒りや悲しみ、嬉しかったことなどの感情の揺れだったりと、目立つものから観えてくる。
それを続けていくうちに、内側を見る目が慣れてきて、より繊細に観えるようになってくるのだと思うのです。
「月が見えたからもう内側が観えたぞ!」とか、「金星が今日も見れて綺麗だったー」とか、そういうんでもなくて。
何が観えても、観えなくても、そこに好奇心や関心を向けてみる。
そして、常に移ろい続ける自分の内側に気づいてみる。
それが内観だと思うのです。
私たちは修行をしているわけではない。だからこそ、内側に優しい眼差しを向けてみよう!
観たくないものから目を逸らすのではなく、理想を妄想するのではなく、ただ観よう。
観たいものが観えなくても大丈夫。
観たくないものが観えても大丈夫。
それらは移ろいゆくものだからね。
さて、今この瞬間、あなたの内側はどんな感じがしていますか?
◉ありのままの自分に戻る時間◉
◉心とからだのバランスをとり戻す◉
cocoyoga:お問合せ / ご予約
Comments