繊細さと傷つきやすさ
- cocoyogayukari
- 7月3日
- 読了時間: 9分
更新日:7月11日
ここ数年、HSPや、色々な特性の認知がすすみ、「繊細」という言葉も見聞きすることも多くなってきました。
「感じるマインドフルネス」の講座でも、「繊細」という言葉は時々登場します。
多くの方が、受講を通して初めて、「私はこれまで“感じる”よりも、まず“考える”ことで頭の中を整理し、理解しようとしていたんだ」と気づかれます。実際、「感じる」ということに慣れていない方も多く、講座のはじめの頃は、その感覚がとてもざっくりしていたりします。
以前、ブログで「自分不感症」という言葉を使ったことがありますが、日常の中で「今、自分はどんな感じがしているのか」という感覚が後回しになっていて、そもそも意識を向ける習慣がなかったという方、またその積み重ねによって「自分がどう感じているのか分からなくなってしまった」という方も、少なくないのではないでしょうか。
「感じているつもり」でいても、実際には思考を通して「こうあるべき」という基準に無意識に当てはめ、「これは正しい大人の反応だ」と、自分の本当の感覚から離れてしまっている。そういった期間が長ければ長いほど、「そのまんまを感じる」ということに、練習が必要になってきます。
さらに言えば、感じていると思っているものが、本当に“感覚”なのか、それとも“思考の介入による擬似的な感覚”なのか、その違いすら分かりにくいこともあるでしょう。
だからこそ、「感じる」ということの練習を始めたばかりの頃は、感覚が大雑把だったり、ぼんやりしていても当たり前なのです。
例えていうなら、味に興味がない間は、「辛い」「しょっぱい」「甘い」「酸っぱい」と大きな刺激となる味はわかるのだけど、繊細な「風味」や「出汁」を感じることができない。でも興味を持って感じる練習をするうちにその繊細な感覚や味もわかりだす...みたいな。まさに、「繊細」に感じる練習ですね。
なのですが、この「繊細」という言葉、なかなかに曲者だと思うのです。
「繊細」という言葉が認知されだし、時には褒め言葉のようになってしまったり、誰かを非難する言葉になってしまったり、また時には免罪符になってしまったりと、言葉に振り回されることもあるのだと思うのです。
確かに「繊細」すぎることが生きづらさにつながることもありますよね。ですが、繊細さと傷つきやすさ、時々同じような意味で使われてしまいますが、微妙な違いがあんじゃないかなーと思うのです。
比較するわけではありませんが、わかりやすく整理するために、少し特徴を分けて見てみようと思います。
<繊細さ>
繊細さは、感受性が高く、物事の細かな変化や微妙なニュアンスに気づきやすい性質を指します。自分以外の「誰か」の気持ちに共感し、影響を受けやすい傾向にあり、気を使いすてしまう。誰かと会うと、楽しいけれど、疲れてしまう...なんてことも多いかと思います。
その他、五感(音や香り、視覚的刺激、肌触りなどなど)に敏感であったり、ついつい同じことを繰り返し考えすぎてしまう。
<傷つきやすさ>
傷つきやすさは、誰かの言動や状況の変化に強く影響を受けやすく、評価にとても敏感になってしまって、感情的に落ち込みやすくなっている状態。自己肯定感が弱くなっているからこそ “傷つきやすく” なっているのだと思います。そしてこれは、生まれつきの気質というより、環境や経験によって形成されるものだと言われています。評価がどうしても気になる、誰かの言動が日反応ように受け取ってしまう、認められたと感じられないと不安になってしまうこともあります。その結果、どうしても「評価」されたかどうか、「認められた」かどうかということに振り回されてしまいます。
傷つく感覚には敏感なのだけど、その他には無頓着だったり、感じられなかったりするのもまた特徴的かもしれません。
どうでしょう?微妙な違いなのですが、違いがあるからこそ、「生きづらさ」へのアプローチも違ってくるのだと思うのです。
では、それぞれのアプローチを見ていきましょう。
<繊細さ>
繊細さって個性。それを持て余してしまうから、生きづらくなってしまうのですが、実は宝物のような個性だと思うのです。
なのですが、ここで注意したいのが、「繊細だから」を免罪符にしないということ。
かく言う私も立派にHSP。そしてなんなら、私の仲の良い友人たちも、もれなくHSP。ですが誰1人としてそれに困っている人はいません。繊細に感じることが当たり前で、振り回されることがないので、話題に上ることもほぼありません。なぜ困ることなくいられるか...それは自分の特性を認識できているからなのではないかと思うのです。
「繊細さ」というものを免罪符にしてしまうと、これがそうはいかなくなってしまします。なぜなら、免罪符にしてしまうことで、「私は繊細なのだからしょうがない」「私は特別なのだから周りが特別に扱う必要がある」となってしまい、棚に上げて、拗れるだけで、宝物が「宝」になりようがなくなってしまうのだと思います。
「繊細さ」って水戸黄門の印籠じゃないのよ。
だからこそ、自分が何に敏感になりやすいのかを知ることがとっても大切です。そして、過敏になっていることに気がついたら、その刺激が悪いのでも、それを刺激として受け取る自分が悪いのでもないということを知っておきましょう。ただ、敏感なだけ。それだけです。
それを認め、受け入れることができたら、対応することができます。
大きな音に反応するのであれば、周りに協力をお願いすることもできるでしょう。人混みを避けるのも、対策になるかもしれません。でも、それは花粉症の人は花粉を吸い込まないように心がけよう!などと同じような対策なだけ。おお事にしてしまわないのもポイントです。
そうやって受け入れることができたら、今度はそれを使いこなすことができるようになります。音に過敏に反応するのであれば、その敏感さゆえに心地よい音が人よりもわかりやすいかもしれない。香りに反応しやすいのであれば、繊細にその香りのもたらす効果がわかりやすいかもしれない。などなど、敏感であるからこそ、誰よりも専門家にもなれると思うのです。
大切なのは
自分の過敏になる対象を知ること
過敏に反応していることにリアルタイムで気づくこと
自分も、対象の原因になるもの(人)も、悪い訳ではないと理解すること
安心できる環境を持つこと
その特性を活かせる趣味の時間などを持ってみること
これだけでも、生きづらさはグッと楽になってくれると思います。そして、繊細さはそのままに、色々なことを迎え入れる “心のゆとり” が育まれてきます。そこまでいけば、振り回されることなく、必要な時には1人でゆっくりする時間を作るなど、対応と共に心地よく毎日を過ごせるようになってきます。
<傷つきやすさ>
では、傷つきやすさはどうでしょう。
育った環境や、友人関係、失敗や辛かった経験など、なんらかの過去の経験により、自己肯定感が低くなってしまっていたり、知らない間に自分の理想像ができてしまい、それに見合わない自分を認めることができづらくなってしまうことがあります。
こんな自分ではダメだと知らず知らずのうちに自分を追い込んでしまうがゆえに、「こうでなくては自分を認められない」とハードルを高くしてしまう。
そしてその結果、物事をネガティブに捉えやすくなってしまうのですよね。
例えば、同じ言葉でも、他の人が傷つかないような言葉に大きく反応して傷ついてしまうというようなことも起こりやすくなってしまうと思うのです。また、ついつい自分が責められているように受け止めてしまったり、自分が悪いんだと思い込んでしまう。そんな心情になりやすいかもしれません。
過去に辛い経験をしていると、心はもう二度と同じように傷つかないように、自分を守ろうとします。これは自然な自己防衛のはたらきで、私たちがむやみに傷つくことを防いでくれる大切な仕組みです。けれど、その防衛が強くなりすぎると、かえって「傷つきやすさ」として表れてしまうこともあるのです。
他人の何気ない言葉に傷ついたり、落ち込んでしまう
失敗や新しいことへの挑戦が恐い
他人の評価が気になって不安
自分の意見を言うのが苦手、周りに流されてしまう
完璧主義、すぐに自分を責めてしまう
もしも、今そのような心の状態になりやすいのであれば、ちょっと一息ついてみませんか?
恐怖や不安などが現れた時、それは今ここにない何かに気持ちが向すぎていないかなと振り返って見ましょう。そして、「今ここ」をを感じてみて下さい。深呼吸をする、外の景色をみてみる、温かい飲み物を入れてその温かさを感じてみるなど、実際に五感で感じられることに意識を向けてみます。
「きっとこう思われている」と感じてしまうのは、とてもリアルな感覚ですが、それは確かめていない自分の頭の中の世界であることを思い出してみて下さい。
「今ここ」の現実ではなく、頭の中の世界に入り込んでしまっている状態。でもその中にいると、それがまるで本当の現実のように感じられてしまうんです。だからこそ、思考の中で体験していることにリアリティが生まれ、ますます自分を追い込んだり、傷つくような考えから抜け出せなくなってしまうことがあります。
繰り返し考えてしまうその習慣から、ちょっと離れることから練習するといいと思うのです。無理に頑張ろうとしないこと。これがとっても大切です。誰かと比べて、同じように頑張ろうとしてしまわない。みんな一人一人違うのだということをぜひ覚えておいて。もちろん、自分だってみんなと違っていいんです。そして、自分の思いを書いてみる、言葉にする練習もまた役に立つ時があります。これは思考の整理。「あー、これが気になってるんだか」、「こんな風に考えているんだな」と、少し自分の頭の中を見れるようになると、「あれ?誰もそんなんこと言ってない」「ここまでできただけで十分頑張ったな」などと、客観的に見れる時がやってきます。
傷つきやすくなっているということは、決して自分がダメなわけではありません。きっとここまで頑張ってきたからこその「傷つきやすさ」なのだと思うのです。でもそのままだとやっぱり生きづらいよね。
そんな「傷つきやすさ」に気がついたら、その時がチャンス!「頑張ったね私。ちょっとひと息ついてもいいんじゃない?」と自分への思いやりを持ってみましょう。
そして、「繊細さ」と「傷つきやすさ」ってグラデーションのように混在していたり、どちらかの要素がどちらかを刺激してしまったりもすると思うのです。私はどっちだ!と決めつけようとすること自体、ちょっと繊細になっているのかも。見極める必要なんてない。大切なのは、必要以上に「繊細さ」を意識せず、だからと言って「傷つきやすさ」に耐えないで、よい塩梅の中庸を見つけられたらいいなと思います。
今ここのリアルに戻る手助けになるマインドフルネスのプラクティスも、ぜひ活用してみて下さい。

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