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プラクティスは裏切らない

cocoyogayukari

うふふふふ。

タイトルのような言い方をすると、「他は裏切るのかい?」と聞かれたことがあります。笑


私がプラクティスが好きな理由って、やった分だけ!っという明確さだと思うのです。

シンプルで明確にわかりやすいのが好き。


お掃除とかも、拭き掃除をしたらその拭いた床がピカピカになるとか、片付けたらそこにスペースができてスッキリするとか、単純明快にわかりやすいのが好きなのです。


フィジカルのヨガを始めた頃、いろんなポーズができるようにと頑張っていた時がありました。周りの人たちのようにできるようになりたかったし、病弱な体を整えたかったし、できるようになる為に頑張れと先生たちにも励まされ、毎日練習しました。

元々体が丈夫ではないし、なかなか筋肉もつかない体質だし、栄養も動物性のものが足りてないし...で、思うように体が使えない。

それでも、頑張って毎日練習しないと、できるようにはならない...と頑張った!

ビヨーンと伸びるのが気持ちよく、柔らかさに任せて伸ばしすぎて肉離れしちゃったり、頑張りすぎて怪我しちゃったり。

自分の体を置いてけぼりの、力任せの練習だったのです。ぬふふ。

今振り返れば、とっても良い経験です。


オン・ザ・マット、マットの上のポーズの練習は、オフ・ザ・マット、マットを降りた日常の練習というのにたどり着くまで、体だけのものだと勘違いしていた。


今では、ヨガを始めた20年以上前と同じような練習は全くしていなくて、ゆっくりと体と呼吸、それに伴い刺激され反応する思考や心の動きを感じるためのものになり、その副産物として、体の滞りが緩和されるというのを享受している感じです。


練習をしたらその分だけ、体は整うし、呼吸が深まり、集中が起こる。

そしてその後の瞑想もしやすくなる。


しなかったらその分、体は滞りを溜めていくし、歪みが強くなり痛みが出たり、思考は流れ続け、心も体も一息つくのに労力を必要とする。


違いを、体で、体験で、そして在り方で感じて知っているから、練習を欲する。

自分の心地よさを優先するために練習をする。

ただそれだけなのです。


そうやって整った体と心で生活をすると、夜まで過ごしやすいのです。

これが自分を労っているということなのだと思う。


しなければいけない練習なんてなくて、ただ自分の為にやっているだけ。自分が心地よく生活するためだけなのです。

そして整い心地よく生活ができると、生活そのものが文字通り、「生きる」を「活かす」ことになってくるのだと思うのです。


以前にも書いた、今日何の為に生きる?っということに繋がりますよね。

今日、仕事のために生きても、お金のために生きても、誰かのご機嫌を損ねないために生きても、誰かの承認を得るために生きてもいい。

でも私は自分の命そのものをここに表すために生きる選択をしたい。それが「生きる」を「活かす」こと、すなわち生活することだと思うのです。


そうやって考えると、本来の生活って気づきが伴ってくるものではないかしら。

だからこそ、毎日ただ生活しているだけで充足感が感じられるし、充足感が感じられるからまた楽しくなる。そして、気づきのプラクティスが生活の中に現れてくる。

マインドフルネスの恩恵そのものですね。


ヨガだけではなく、瞑想だって、ボディワークだって、そして他の何だって同じ。

練習した分だけ体験となり、自分のものになる。


体験した分だけって、シンプルで明快じゃない?






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