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バウンダリー

誰か別の人のことを「感じる」ことはできないっと思っています。

それは寂しい意味ではなくて。

もちろん、押しはかることはできるし、思いやりや慈しみの心を向けることはできる。

でも、誰かの感覚を同じように「感じる」ことはできません。


それを敬意を持って大切にする行為が「バウンダリー」だと思うのです。


あなたにはあなたの体験があり

私には私の体験がある


それが似たようなものの時もあるけれど

あなたが感じているものはあなただけが感じることのできる

唯一無二の大切で貴重なものだからこそ

そのままにしてみましょうっということ


もしもそれが何かの価値観に基づいているからこそ起こる苦しみの感覚であっても

何か物語の中にいるからこその苦悩であっても

真理から離れてしまっているからこその無明であっても

その人が感じているその苦しみや悲しみ、喜びや楽しみは「なかった」のではない。

伝え手として「バウンダリー」が大切なのは、そこへ介入してしまうからで

介入がさらに、同化を引き起こし、どちらの体験だったのか混乱を起こしてしまう。


「バウンダリー」があるからこそ、良い悪いっと言ったジャッジから離れて

自由に今ここをその人が感じることができる。

感じることができるから、「今ここにないこと」から自由になることができる。

今のその人であることができるようになるには

「バウンダリー」ってとっても大切なのです。


そして今ここの感覚が深まって

初めて「全は一」、全てはここにあるっという「体験」が起こります。

私の個人的な体験を言葉で表そうと試みるなら(実は言葉では表せないものなのですが)

真空、もうそれは何もない以上の何も存在できない求心力の中の真空の中に

自分が想像できる以上の全てがあるっと言った感じでしょうか。

疑問というものさえ生じる隙間のない真空の世界では

「そうであったか」っという体験しかない。

私もなければ、私以外もない。


こういった体験は、ただの体験です。

それを体験したから、すごい訳でもなく

瞑想でその体験を目指すものでもない。

起こってしまうただの「体験」なんです。


それを踏まえて、日常を自我というものをもった個人をどう生きるか

っということが今体を持って生きる上でとっても大切なんだと思うのです。


日常の体験の中には必ず「自我」が生じています。

だから楽しいのです。


「全は一(ぜんはいち)」っと強烈に、あるいは何度も「体験」した人の多くは

自分以外の人の中に起こっている感覚や存在しているエネルギーを感じることが

できるようになる人がいます。

それって自我のレイヤーでは「バウンダリー」を

踏み越えてしまう行為になってしまう事があると思っています。

他者への尊重が欠けてしまう行為。

わかることが大切なのではなく、今その人の体験をそのままにする

その人へのリスペクト。


そして、それができるからといって

誰かの体験を体験してるのではないという自戒。

これがない場では、息苦しさが生じやすくなってしまうし、

こうでなくてはいけないっとうコントロールや

誰かに受容されたいというストーリーの世界から自由になることは難しい。


心のことをマインドフルネスを通して伝えていたり

体に直接触れるエサレンやクラニオをしているからこそ

とっても大切にしたいと自分の経験を通し思っております。


健やかな「バウンダリー」がそこにあって

その人が安心できるようになると

何かをしなくても、ちゃーんと今その人に必要な体験が現れてくるんだと思うのです。


「バウンダリー」の解釈、

要所要所で深まり続けているこのサブジェクト。

エサレンを始めた頃の解釈からすこぶる変化しておりますが

きっとここからもまだ気づきが深まっていくんだろうなーっと楽しみにしております。





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