濁りは濁りを呼ぶと思うのです。
先日友人と「自分に嘘をつかない。自分を誤魔化さない」ことの大切さを再確認しました。
そのためには自分に気づいていること。
そして、自分の内側の感覚と違う言動にならないように心がける。
というか、私たちもう自分にも誰かにも嘘がつけなくなっちゃってるよねーと大笑いしたのでした。
少し前の時代ってwhite lie なるものがあると言われていましたが、それって余計なことだと思うのです。
誰かを傷つけないようにつく嘘。
それは他でもない自分を濁らせてしまう行為だと感じています。
日本人はよくお世辞も言うよね。笑
全く気が付かない間に口をついて出る習慣がある人もいるくらいだし、笑たくないのに笑顔だったり。「嘘」と言ってしまうまではいかない....でも自分の内側に起こっている純粋な反応とは違う言動。
それらがもうできないし、できたとしてもしたくない。
自分の中の純粋性を大切にするのであれば、コミュニケーションの中で、言葉を選ぶことやタイミングを見ることはあっても、自分の内側の感覚と相違があることをアウトプットしてしまわないことがとっても大切だと思うのです。
濁りは濁りを呼びます。
少しの ”誤魔化し” は、だんだんと誤魔化すことが日常化してしまうし、自分の内側が濁ってくると、段々見えずらくなってくる。それが積もり積もると、自分が何を感じているのかがわからなくなってしまう。
真の自己が感じられなくなってしまう。
日常の中で、ほんのちょっとづつ、自分以外の誰かの顔色を優先したり、誰かを良い気分にすることを優先させてしまうのって、その場をただ取り繕い、真実から離れていく行為。
そうやって自分を陥れることはもうしません。笑
だからと言って、「その服、にあってないね」とか、「今、腹立ったわー」というような言葉の刃を ”相手に向けてもいい” というのではないので、お間違い無く!!
(いや、そんな勘違いする人いないだろーけど!笑)
そんなの、ただの自分のトゲトゲを人に向けている幼いコミュニケーションですものね。
相手を傷つけるためではなく、自分のそのままの感覚を大切にする、コミュニケーション力がそこには必要。
そして、コミュニケーションの中で、自分がカチンと来たり、ぐさっときたら、その時が自分の内側に気づくチャンス!だとも思うのです。
例えば、”カチンと来る” 前、”ぐさっとくる” 前って、よーく観察してると、「ハッ」とした衝撃があると思うのです。その衝撃という小さな反応の間に、気づきが間に合うように練習すると、腹がったり、ショックを受けたりしなくなる。
ただ自分の中に、反応があるという感覚がそこにはあります。そうすると自分の中の何に反応したんだろう?という関心が自分に向くようになるだけ。
腹が立つ必要もないし、ショックを受ける必要もない。
感情が動く時、それが自分に気づくただのチャンスになってくるのです。
気づいたら、ただそれだけでOK!
気がつくから、いらないものは、いらないっと選択できる。
いらなくても手放せないものもあるだろうし、手放せなかったら、その「手放せない」をそのまま気づけば良いだけ。
どこまでいっても、自分なのです。わははは。
そうやって、”どこまでいっても自分なんだ” と気がつくと、「本当はこんなふうに思っているんじゃないか?」とか、「こんな意味で言いたかったのかな?」など、深読みしてぐるぐる回る、勝手な空回りコミュニケーションからも卒業できるのですよねー。
内側も物事も、どんどん純粋にシンプルになっていくのでございますよー。
”感じるマインドフルネス” 的コミュニケーションでも、よくお話してる内容だったのですが、先日友人と改めてその大切さを話したので、今日はブログでもリマインドとして!♡
さて、今日も自分を見張るためではなく、自分に慈しみと好奇心を向けて過ごしてみよう!

◉ありのままの自分に戻る時間◉
◉心とからだのバランスをとり戻す◉
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